The Memory of TAKAJUN

怠惰な方向音痴の記録。

高専カンファ147福岡に添えて

帰って記事を書くまでが高専カンファだと、誰かが言っていた気がするのだが、そのことすらも帰ってから思い出したので、書くのに時間がかかっていることをお許しいただきたい。

今は、楽しかったという気持ちと、喪失感というか焦りというか、形容しがたいものが同居している。

まず今回の開催について私が祝いたいのは、高専カンファレンスという文化を断絶させなかったことだ。これだけで非常に大きな価値があるとは私は思う。

私が高専カンファレンスというものを知ったとき、既に高専生活は終わりに近づいていた。そのことをまず悔いた。こんな楽しいものが世の中にあることを何故今まで知らなかったのだろうか。悔しいから、これからはできる限り参加し続けたいと思って、1年ほど参加できる限り通った。

だが、2020年は暗黒の時代だった。何故だかは語るべくもないだろう。高専を卒業するという儀式すら私には許されていなかった。それでも長岡技大にいるうちは、高専界隈の一員だという自認があったが、だんだんと、高専界隈というものとのつながりも切れてきた。これもひょっとすると、積極的につながりを維持しようという精神に欠けていたからかもしれない。重要なことは、私はこうして、高専に対して未練を残したまま、気づけば社会人になってしまっていたということだ。その結果があの発表だともいえる。

だからこそ、3年ぶりのカンファレンスには、私は行かねばならなかった。失った青春を、取り戻そうとしたかった。今回印象に残ったことは、初めての参加者が大変多かったことだ。それはすなわち、この文化が次の世代に受け継がれるということだ。次は運営をやってみたいと言っている現役生が何人もいた。彼ら彼女らを、私は応援したい。どうか、悔いのない高専生活を送ってほしい。そして、この文化を受け継いでほしい。高専カンファレンスというものを通して変われたり、救われたりする高専生は、必ずいるはずだ。特にこの日、遠方から来た高専生は、その行動力を持っていてほしい。移動オタクをしていると麻痺しそうになるが、多くの人間は遠くに行くことを嫌うのだ。その壁を越えるだけで、並大抵のことではないのだから。

 

さて、今回も様々な話題を聞かせていただいたが、実に「高専カンファレンス」だと思う。クイズの話、中二病の話、水彩画の話、フラクタル図形の話、橋の話、いずれもここでしか聞けない、唯一無二の話だ。こんな話を聞ける機会も、話せる機会もそうそうないし、そういったことができる場は、ありつづけてほしい。

私の話をするなら、私もこういう話ができる場をずっと求めていたからこそ、ああいう発表をした。私は人前で話すのが大の苦手である。けれど、高専カンファレンスなら、勢いで会場を沸かせることだってできてしまう。高専カンファレンスがなかったら、そんなこともできなかっただろう。だから本当に感謝しているし、いつまでも登壇し続けたいとすら思う。高専カンファレンスの主役が現役生であることを思えば、特筆すべき活動をしているわけでもない私が彼らの発表の場を奪うような形になるのは全く望ましくないであろう。私には何もないから、高専カンファレンスというものに固執しまっているのかもしれないと思う。

そう考えたとき、辛くなってしまった。「私は何もやりたいことがない」という発表をして、確かに会場を笑わせることができてしまったけど、私は本当にそれでよかったのだろうか?私はこのままでいいのだろうか?私は今の人生に、まあまあ満足しているし、それでいいと確かに言った。けれど、あそこで見た高専生は、例え高専を退学していても、やりたいことに向かって行ったことを誇っているように見えて、辛くなってしまった。ポテンシャルはそんなに悪くないのかもしれない。誰か、助けてくれないか。そうやって他力本願になっている時点で、やっぱり私はダメなんだと思う。

やっぱり、何もやりたくない人間であることには、胸を張るべきじゃない。やりたいことを見つけるべきなんだ。私ももうちょっと、私なりの道を見つけたいから、せめてそれまでは反面教師にでもしてほしいと思った。

新春高専カンファレンス初風に参加しました

新春カンファ振り返り

はい、タイトル通りです。

高専カンファレンスに参加するようになってから間もなく1年という感じですが、そろそろ関西圏の高専カンファでは常連という感じになってきたのではないでしょうか、と自負しております。
なにしろ承認欲求が強いもので毎回しょうもない登壇をしてしまうのですが、面白いと言ってくださる方も多くて嬉しいです。

 

例によって登壇しました

今回の登壇テーマは「鉄道オタクの僕が本気出す話」。
もうひどいタイトルですが、雑に言うと「ソシャゲの背景画像に出てきた車内の画像からどこの車両か特定しました」って話ですね。
そもそもなぜこんな発表テーマにしたかと言いますと、「自分にしかできなさそうな話」をしたいなと思ったからです。有名なアニメやゲームに出てきた鉄道車両は、少しのシーンでもだいたい二次元と鉄道兼業のオタクによって特定されるのですが、本当に自力で知識と検索力を動員して特定した、という経験を持っている人はほとんどいないと思ったので、発表のネタ程度になるかな、と考えていました。
とはいえ、高専カンファレンスではいろいろ役に立つ話、ためになる話を発表される方が多いのですが、この話は言ってしまえば自分の知識自慢でしかなく、一切の生産性がないのでは?ということに作ってから気づいたので、顰蹙を買うのではないかと不安でした。

5分の枠なのにも関わらずスライドが37枚となってしまったために、滑舌が悪いのにもかかわらず、本当に勢いで発表することになってしまい(やりすぎて1分余らせましたが)「尖ったオタクは面白い」「特定できる知識量すげえ」など高い評価をしてくださった方も多く、満たされました。

飛び入り発表は過去スライドとしてTalk_Cafeで紹介した「はじめての名刺作成」をやりました。AviUtlで名刺を作るだけの話なのですが、こちらも懇親会中にもかかわらず笑ってくださった方が多くいて、発表できてよかったなと思っています。発表している間にお菓子がなくなっていたことは悔しいです

 

発表の感想とか

カンファに参加するたびにほとんど登壇している自分ですが、もちろん他の人の発表を見ることも楽しみにしています。
全ての発表についてコメントするのは難しいのでいくつか書いていきますと、まずちげさんの「""よさみ"なロゴの作り方"」はちげさんらしい見やすいスライドで、ロゴ制作におけるありがちな話から実用的な話に結び付けていて、ロゴ以外のことにも応用できそうな発表でした。自分もたまにロゴを作ろうとするのですが、いままで作れたことがないので、いつか参考にできたらなあ、と思います。
カエデちゃんの「ゲン担ぎに意味はあるのか」は初カンファ初登壇とのことでしたが、ゲン担ぎの話からDDRにつなげるという流れの作り方の上手さと、比較実験を行って結果を出すところまでやっているというやる気を感じられる部分が良かったなあ、と思います。カンファに慣れてる人々の発表に引けを取らない面白さでした。
暁の流星の「CSSから国民を守る党」と西の山の「はるかぜの粒子とともに」はどちらもTalk_Cafe初出のスライドですが、初めて見たときめちゃくちゃ笑った記憶があります。2回目が見れてまた笑わせていただきました。ありがとうございます。
発表者の個性に頭が上がらないな、と感じたのはリキト様の「540km先に推しが実在しない」とへーちゅーさんの「推しを布教するだけ」です。このお二方の発表にはいつも大変満足させられております。
飛び入りLTでもポリ公

書いてて思ったのですが、褒めることの語彙力なさすぎません?いや本当にいろいろすげえなって思ってるんですけど

 

反省点と今後について

反省点としては、今回見知った顔の参加者が多く、主にその人々と集まって話していたために、初対面の方とあまり話せなかったということでしょうか。もともと初対面の人と話すのが苦手なのもあり、どうしても話しかけたり会話したりするのが苦手です。先輩/後輩の関係など気にせず、気軽に話しかけていただけると嬉しいです。

さて、自分はあと2か月ほどで高専を卒業する(はず)なのですが、これからも高専関連イベントに顔を出せればな、と思います。老害とか言われると全く否定できないのですが、せっかく仲良くなれた人達との関係を保ちたい、というのもありますし、年に関係なく学べることは学べると思うので、定期的に顔を出したり、たまに登壇したりできればな、と思っています。何卒よろしくお願いします。

 

お詫び

今回解散後、私を含む主に #kosentravelers タグ使用者界隈を中心とした集まりで行っていた二次会において、#kosenconf_142newyear タグを使用して不適切なツイートが行われる、という案件が発生しました。
自分は問題のツイートそのものは行っていませんし、批判の対象となっているのも主に"身内"ですから、それを見るのが辛い、というのは正直思っていますが、自分のいる場に起きたことがこのような事となったことは決して他人事ではありませんし、自分が身内としてかかわっている界隈において大変思慮の浅い行動があったということで、本件について深くお詫び申し上げます。

 

 

【第21話】とある社会不適合者から、高専への、ありがとう。

この記事はNara高専 僕たちの遺言集 Advent Calenderの21日目の記事です。
読み応えのある記事が揃っているので、ぜひ読んでいただきたいと思います。

Adventar.org

 

はじめまして(2回目)

えー、はじめまして。遺言集の21番手を担当させていただきます、たかじゅんと申します……って言いたいのですが、このアドベントカレンダーでの登場も2回目ですね。「お前誰やねん」って方は、第3話で軽く自己紹介をしているのでよろしくお願いします。
前回「話が重いです。」というお叱りを頂いてしまいましたが、今回も例によって、それどころか前回に輪をかけて気持ち悪い自分語りをお送りします。気分を害された方は、ブラウザバックを推奨します。

 

生まれながらにしてオタク

さて、社会不適合者なんて自称するものではないとは思うのですが、自分はそうであると感じざるを得ないのです(思わないとやっていけないのかもしれません)。ではいつからこうなってしまっているのでしょうか。自分で考えるに、生まれつきなのではないか、遅くとも物心ついたときには既に社会へと適合するつもりはなかったように思えるのです。

というのも、幼稚園児の頃から既に、私は一緒に遊ぶような友達がおらず、一人で本を読んだり絵を描いたりばかりしていたからです。読む本というのも、絵本とかではなく、自動車・鉄道・生物・将棋などについての、少し詳しい本ばかり読んでいました。このような書物は幼稚園児向けには書かれていませんから、必然的に漢字を沢山覚えるという作用もありました。このせいで知識量はとても増えましたが、友達と一緒に外で遊ぶという健康的なことはろくにしなかったので、運動能力は全く身に付きませんでした。

つまるところ、この当時から単なる「オタク」だったわけです。身の回りの人達は、それを特段悪いとは考えていなかったでしょう。両親ともにオタク気質はありますし、何よりとても幼稚園児レベルではない知識量を身につけていたのです。将来が有望だ、程度に考えていてもおかしくありません。

 

メンヘラ小学生

小学校に入っても、自分という人間自体は変わりませんでした。小学校低~中学年程度の勉強など、本やテレビ番組から身につけた知識の範囲内にすぎません。小学校1年の途中でいま住んでいる志紀に引っ越し、地元の図書館にも通うようになると、歴史、地理、数学、化学など、いろいろな分野の本を読み漁るようになりました。ここで身につけた知識は、今でもクイズで存分に役立てることができてしまっています。

ですが、周囲の環境は変わります。簡単に言ってしまうと、いじめが始まりました
いえ、おそらく当人達にはいじめているという自覚はなかったと思います。今思い返せば、嫌がらせをして泣かせるようなことはあっても、物を壊されるとか、怪我をさせられる、みたいなことはありませんでしたから、ある程度のラインは弁えていたとも思います。とはいえ、私にとっては紛れもないいじめでした。

なぜこのような目に遭ったのか、考えるまでもないでしょう。輪に入ろうとせず、知識をひけらかしては頭良いアピールをし、筋力・体力はとても弱く、少しちょっかいをかければ過剰なまでに怒り散らして泣く、という子供でした。そのような子供に嫌がらせをするというのは子供の娯楽として、ごく一般的でしょう(そうあるべきではないとは思いますが)。

そして私は、メンヘラになりました。小学校2年生ぐらいの時には既に、「僕はバカでアホでゴミでクズでカスで、誰にも必要とされていない、早く死んだほうがいい、生きる価値がない」ぐらいのことを考えていた、という記憶があります。
メンヘラになった私は、それを行動で示しました。授業中に床で寝てみたり、「ゴミが落ちていたので捨てました」と言ってゴミ箱に入ったり、配布プリントに書いた名前の周りに「ゴミ→」「←死ね」などと書きまくったり、教室の自分の机を齧ったり、など、奇行に走りました。こんなことをしている子供が周囲に嫌われるのは当然ですから、ますます嫌がらせをされるようになりました。

また、いつ頃からかはもう覚えていませんが、宿題をやらなくなりました。わかりきったことを延々と繰り返される宿題なんていうのは苦痛でしかありませんでしたが、ここで「タスクをサボる」ということを身につけてしまったことは、今でも引っ張っています。

こうしてステレオタイプないじめられっ子オタクになってしまったわけですが、勉強は問題なく(周りの誰よりもと言っていいほど)できましたし、身につけた雑学で先生と語り合ったり、学級委員を歴任したりなど、一部ですが充実していた部分もありました。

そして、もう一つ大事なことは、私は周りのほとんどを見下していたということです。自分は周りより知的で、高尚な人間である。周りの人々は低俗だ、と。

 

陰キャオタクを極める

さて、私がインターネットに触れるようになったのは、小学校5年生ぐらいの頃でした。最初は父親のPCでこっそりインターネットを見ていて、そのうち公然とやるようになりました。

インターネットでは、あらゆる分野の知識を簡単に仕入れることができます。知識を蓄えるのが何より大好きなオタクにとって、これほど便利で素晴らしいものはありません。当然、すぐにのめりこみました。

もう一つ幸せだったことは、インターネット上には、私と同じく、(大変失礼ですが)社会不適合オタクとでも呼べるような人々がたくさん生息しています。彼らとは簡単に仲良くなることができました。

中学校に入ってからは、学校から帰ったらほぼずっとインターネットをやってましたし、2chニコニコ動画からオタク文化を学びました。Twitterを始めてからはさらにです。

さて中学校の環境はというと、私のいた中学校の校区は小学校とイコールであったために、一部の中学受験した人達がいなくなることを除けば、メンバーは変わりません。つまるところ、ほとんど変わらないのです。とはいえ、年齢は変わりますから、少しずつやることは変わってきます。「やんちゃ」が「DQN」になるような感じです。そして私はオタクへの道を突き進んでいるのですから、さらに合わなくなってきます。それでも少しは仲のいい友達がいたのですが、中学校三年生の頃になると、数少ない友達とことごとくクラスが離れてしまい、完全に孤立してしまいました。

中学校三年生というのは通常なら受験の時期なのですが、勉強する習慣がなかった(第3話参照)私は、ひたすらTwitterをしていました。私の中でこの頃がTwitterが一番楽しかった時期だと思います。Twitterで人間関係を広げた私は、オフ会に参加するようになりました。中学生でオフ会なんてほめられたことではないと思いますが、不健全な要素はほとんどありませんでしたし、気の合う友人同士ですから、学校よりはずっと楽しかったです。

 

成長しない人間

さて、ここまで読んで、私と高専生活を過ごした方であれば、「昔の頃の話みたいに言ってるけど、今のお前じゃん」という感想を抱かれたのではないでしょうか。

そうです。今の私です。

先程上げたような奇行は高専に入ってからも止め(ることができ)ませんでしたし、他方では(一部の教科限定ですが)テストでそこそこの点を取ったり、委員会をやったりしているという性質は何も変わっていないのです。幼少期に身につけた人間の性質というものは、簡単には変わらないのでしょう。

しかし、何度も言うようですが、環境は変わります。私は、今いるこの環境ほど、私にとって幸せな環境はないと思いますし、だから将来が怖いのです。

 

人の根っこは変わらないけど、伸びる枝は変わる。

高専に入っても、はじめは馴染めるかとても不安でした。なにしろ、これまでの人生でまともに友達ができたことがなかったのです。そして、どこでどう繋がったのか、既に仲良く話している人達がいるのです。その中に入っていく勇気など、あるわけがありません。

ですが、これは杞憂に終わりました。Twitterでクラスメイトをフォローすることから始めた私は、いつのまにかクラスに溶け込んで遊んだり、話したりするようになりました。

友達ができたのです。

高専は留年しなければ、5年間クラスが変わりません。このような環境で、クラスメイトのほとんどと良好な関係を築くことができたことは、非常に幸運です。今までの人生からすれば、あり得ないことでした。

友達ができたことで、自分にも変化が起きました。その最も大きかったことは、自己肯定感が身についたことです。クラスメイトが、いろいろな理由で、私を必要としてくれていることに気づきました。こんな自分にも生きる価値があるのです。

さらに、自己肯定感が身についたことで、今までの偏った考え方から離れ、自分と他人の良いところと悪いところについてある程度客観的に見ることができるようになりました。

そうはいっても、前述した通り、私の性質が変わったわけではありません。私は今に至るまでメンヘラで、時には昔のような思考を延々としてしまうこともあります。けれど、それでも私は変わることができたと思うのです。
それは何より、私の嫌になるほどたくさんある短所だけではなく、自分でも気づいていなかったような様々な長所に気づき、受け入れてくれた、クラスメイトや先輩方、さらには後輩の皆さんのおかげです。自分の長所と短所が客観的に評価されることで、自分も他人の良いところに気づくことができるようになり、人間関係を学ぶことができました。

 

高専への、ありがとう。

私が今こうして生きていられるのは、高専という環境に行き、自己の承認欲求を適切に満たすことができたからに他ならない、と自分は考えています。

高専生のネタツイのテンプレに、「高専には来るな」というものがあります。私はこのようなネタがあまり好きではありません。確かに厳しいことはたくさんありますし、人によっては全く合わないということも少なくありません。
しかし、高専に来たことで救われた人間は、確かに存在するのです。

そして、何よりも感謝しなければならないのは、私という一人の人間と共に過ごしてくれた、同期・先輩・後輩に限らない、高専の皆様です。この中に、たかじゅんという人間を救ってやろうという使命感で動いていた人間はおそらくいないでしょう。それで良かったのです。

私は未だに、社会不適合者です。起床に失敗し、タスクを積み、勉強を怠り、後で大変なことになる、そんな人間です。初対面の人と話すのも大変です。メンヘラです。でも、みなさんのおかげで、生きられています。壁にぶつかったとき、何かしらの助け舟を出してくれる方が、私の周りにはいます。

5年間通った高専ですが、私は卒業しなくてはありません。これから新しい環境でやっていけるのか、すごく不安です。自信はありません。でも、なぜか生きていけるような気がするのです。

 

最後に、これはただのお願いなのですが、たかじゅんという高専生がいたことを、忘れないでいてくれると嬉しいです。それが、私への一番の励みになります。またTwitterで駄弁りましょう、ひょっとすると会う機会もあるかもしれません。

 

今まで、本当にありがとうございました。

これからも、よろしくお願いします。

【第3話】不可と怠惰と編入試験

この記事はNara高専 僕たちの遺言集 Advent Calender 3日目の記事です。

Adventar.org

はじめまして

えー。はじめまして。遺言集の3番手を担当させていただきます、たかじゅんと申します。
といってもこの記事を開いている方であれば、私のことを全く知らないという方はかなり少ないのではないかと思いますが、軽く自己紹介をしておきますと、現在情報工学科5年(レストと同じクラスですね)、来年は長岡技科大で、普段は鉄道など乗り物のオタクをしていたり、TRPGで遊んだり、動画を作ったりしています。関西にいられるのはあとわずかですが、ぜひ仲良くしてください。

まあそんな私の余計な話は21日にまたやると思うので、今回は比較的真面目な話を。

明らかにイキリだったり、いくらなんでも失礼だろうというような内容を含んでいるのですが、できるだけ私の本心が伝えられるように書いています。不快に思われるかもしれませんが、どうかお許しください。

 

大学編入を志した話

と、まあ長岡技科大に行くと言ったわけなのですが、実のところこれは望んだ結果ではありません。第一志望の静岡大、第二志望の和歌山大と受けて落ちまして、なんとか滑り止めに合格して路頭に迷うことは回避したわけです。滑り止めとはいえ行ってもいいなと思っていた場所ですし、とても悔しいというわけではないのですが、それでもこうなったのはやはり人生のミスだと思わざるを得ないのです。

高専生ではよくあることかと思いますが、私は中学生のころ、他の諸々は抜きにすればテストの成績は優秀な部類だったので、将来大学に行くんだろうなあとぼんやり考えていました。高専の受験を決意してからも、将来は大学に編入しようと考えていました。

ですが、高専では成績が徐々に下降していき、進学をあきらめて就職の道も考えました。最終的に進学を決意したのも、就職して社会に出るということが私にとって極めて重く、今そうする勇気がなかったからです。

 

79.8点

これはなんの点数かといいますと、情報工学科で算出される、(1,2年の総合成績の1/3)+(3,4年の総合成績の2/3)で構成される総合成績です。
そして、情報工学科で大学編入の推薦を受けるのに必要な最低の点数は、80点です。
これの意味することは、推薦による編入試験の受験という、進学の近道が閉ざされてしまい、一般入試の受験、すなわち受験勉強の道を進むしかなくなったということです。
志望先はさすがにこの時点ではもう決めていましたが、技科大はともかく、それ以上は先生からは入れるかどうか微妙、という評価でした。

 

怠惰

さて前述した通り、私の受験は上手くいかなかったわけです。それは何故か自己分析するならば、私が怠惰であるからでしょう。
同じ5Iのメンバーならば、5年の前期に私がろくに受験勉強をしていなかったことを知っていると思います。

これは堂々と言えることでは全くないのですが、私は「勉強をする」ということが、きわめて下手です。
イキリオタクと言われるようなことを述べると、中学時代、テスト勉強など一度もした覚えがありません。塾にも通ったことはありませんし、通信教育を受けたこともありません(家に届いた進研ゼミの漫画を読んでいたぐらいです)。それでも中学時代は、テストの成績が平均80点を割ることはなく、低く見積もっても上位1割に入る程度には取れていました。それで何も困ることはありませんでした。

よく、「実はそこそこ勉強してていつも点数取ってる奴がテスト当日に『ヤバい私全然勉強してない(笑)』みたいなこと言ってくるのウザい」というあるあるネタを聞きます。今思えば、私はまさにこのような人間だと周囲から見られていたのだと思います。しかし、実のところ、私はこれをネタとして理解できません。「本当に全く勉強しないで、十分に高い点数を取る」という、自分という人間がいたからです。

当然、「勉強する習慣」などつきませんでした。高専の受験(推薦は内申点が低すぎてあり得なかったので、一般で受けました)ですら、過去問を数回解いただけで臨みましたし、受かってしまいました。

そんな「勉強する習慣」のない人間が、果たして高専でやっていけるのでしょうか。既に自覚はあったので、入学当初はとても不安を抱いていました。数学βの最初の小テストで、平方完成が全くできず、0点を取ったとき、すこし危機感を抱きました。しかし、その時はそれだけで、結局1年や2年の前半までは、どちらかといえば成績が優秀な部類でした。これも自分で言うことでもないですし、イキっていいようなことではないのですが、なんだかんだ「頭の良さ」というものはあったのだと思います。そして私は、「なんだ意外となんとかなるじゃん」という油断を身につけてしまいました。

しかし、この頃から既に無理が出ていました。2年の前期の英文読解の点数が低く、英語の補講を受けることになってしまったのです。そもそも私は英語が苦手だったうえに、ろくに授業も聞いておらず、勉強せずにテストを受けていたらまともな点数が取れるわけがなかったということです。
この補講はとても丁寧なもので、受けていてよかったと思えるのですが、当時この補講を受けていたのは、大変失礼なのですが、ほとんどが成績下位者でした。私は平均より上位の成績にいたので、「お前なんでおんねん」という煽られ方をしました。これも大変失礼なのですが、自分が成績下位者に紛れ込んでイキっているように思えてしまい、微妙に嫌な気分でした。

補講の甲斐もあったのかどうかはわかりませんが、結局英文読解の単位は取ることができました。

 

不可の民になる

しかし本当に問題だったのは、英語ではありませんでした。数学です。私はもともと数学に苦手意識がありました。そして、2年の後期の微積で30点台を取りました。しかし、微積を担当(それどころか1年から4年まで数学を担当)してくださっていたU先生は非常に優しく、この程度のやらかしであれば単位の問題になることはありませんでした。

しかし、数学が極めて重要な教科があります。物理です。3年生から、応用物理の担当は悪名高いS先生でした。S先生のテストは、数学が苦手な私にとって非常に難しかったのです。当然、前期中間の時点でかなりひどい点数を取りました。しかし、ここで危機感を覚えても、どうしようもありませんでした。物理でひたすら低い点数しか取ることができなかったのです。3年生の応用物理は、最終成績59点で不可Aをつけてしまいました。

当然、不可解消試験が必要になり、これは本当に辛かったです。勉強する習慣がないからです。この試験を受けていたのは、やはり成績下位者がほとんどだったのですが、私は得意教科ではかなり高い点数を取っていたので、総合的な成績は平均程度でした。しかし、応用物理に関しては、その成績下位者以下の理解度だったのです。「なんだかんだ自分はある程度頭が良い」とイキッていた私にとって、これはとても辛いことでした。

進学を諦めかけて、就職を考えたのもこの時期です。3年の応用物理Ⅰはなんとか翌年中に解消できたのですが、そして、4年の応用物理Ⅱと電磁気学も同じように不可Aを取り、5年もまた不可解消試験を受けなければなりませんでした。

この時期、私はある答えに辿り着いていました。それは、「勉強しても点数が取れない」ということです。応用物理も電磁気学もとても苦手で、落単の危機にあるということは当然わかっていたので、テスト前には問題を解き、公式を覚え、分からないところは友人に教えてもらう、という勉強をしていたのです。テスト前にきちんと勉強することがそもそも珍しいことでした。しかし、結局この程度の努力ではどうしようもなく不可を取りましたし、そして同時に、「テスト前日に最低限の復習をしただけ」レベルの教科では、ほとんど単位の問題になることはありませんでした。

 

それでも現実は見られない

この結果が、最初に述べた、編入を志望するもろくに勉強せず第一志望に落ちる、という事象です。数学も英語も苦手なのに、せいぜい過去問を読んで問題集を解くぐらいで、編入の問題が解けるようになるかというと、なりません。今思えば当然のことです。

これは専攻科に受かった人からは怒られそうなのですが、専攻科を受けなかったのも失敗でした。そもそも高専が大好きな私は、第一志望の静岡大に行けないなら、専攻科に入るメリットのほうが大きいだろうと思っていて、直前まで第二志望に置いていました。しかし、専攻科受験希望の人数は予想以上に多く、これは受からないだろうと思い撤退を決めました。この時は、後悔していませんでした。ですが、蓋を開けてみると、当時既に卒延が確定していたB君を含めて全員が合格していました。この時すでに第一志望の不合格を受け取っていた私は、やるせなさを感じずにはいられませんでした。あと少しのやる気と勇気と学力があれば、合格できていた可能性は低くなかったはずなのです。

結果的に滑り止めには受かったからよかったのですが、現実というのは重いものです。もう少し勉強していれば、別の受験先にしていれば、あるいは就職志望にしていれば、という念は、今でもあります。今の私は、プレミを積み重ねた先に立っていると自分では思わざるを得ないのです。

 

編入を目指す人々へ

はじめは「これ書けることあるのかな?」と思っていたのですが、とても長くなってしまいました。
これから編入を目指している方がもしこの記事をここまで読んでいただけていたのなら、少し考えてほしいことがあります。

貴方は、目標に向かって努力することができますか?

もし自信がないのであれば、編入を目指すなというわけではありません。悔しい思いをしないためには、(こんなことを言うと炎上しますが)身の丈に合った受験という考え方も必要になってきます。努力が難しいならば、ハードルの低い志望先も考えることをおすすめします。私が合格した技科大は、とても倍率が低いので、合格できる確率は高いです。受けていない身で言うのも違うとは思いますが、専攻科もおそらくそうでしょう。専攻科は受験料が安いというメリットもあります。

編入試験は基本的に問題数が少ないので、出題範囲が偏ることもありますし、情報が少ないことから対策も限界があるので、どうしても運の要素もあります。受けた学科の合格者がゼロだった、なんてこともあります(私が落ちた和歌山大学の社会情報学メジャーがこれでした)。

それでも、後悔しない選択をしてほしいのです。そして、受けると決めたからには、全力で立ち向かってください。大抵の場合、過去問はどうにかすれば手に入れることができます(私は過去問入手のために一度静岡大に向かいました)し、編入対策用の数学問題集も市販されています。それをやれば十分というわけではありませんが、できることをやらないことほど、勿体ないことはありません。

今成績上位だ、という方は、このまま突き進んでください。志望先を選ばないのであれば、推薦ラインさえ超えていればどうにかなると思います。そうでなくても、高専で成績上位を取れるぐらいの実力があれば、有名大学だって狙えるでしょう。そうなるともう、私よりはるか上の世界です。編入試験ならば、他に滑り止めをいくつも受けることだってできます。いろいろな道があります。

そうでないけど、編入を目指したい、という方は、できることを積み重ねてください。怠惰の自覚があるのなら、無理をしないという考え方も必要かもしれません。この記事を読んでいる貴方が3年以下なのであれば、今から成績上位を目指し、推薦ラインを狙うことをおすすめします。仮に超えられなかったとしても、そこまでの努力は無駄にならないはずです。

 

最後に

ここまで長文を読んでいただき、ありがとうございました。皆さんの境遇は私にはわかりませんが、各々の夢を叶え、幸せな未来を手に入れることを祈っておきます。私も辛い思いをした話だけではなく、1年後か2年後か、もっと後かもしれませんが、技科大に進学して良いことがあった、という話ができるように、大学生活を送ろうと心に誓います。

 

最後はどうか、幸せな未来を。